「ラ・ボエーム」雑考

◆以前「ラ・ボエーム」上演にあたって演劇の演出家を招き、立ち稽古に入る前にこの作品の台本について1週間かけてディスカッションしました。◆すると、これまで慣例とされてきた一種のパターン化された演出が、必ずしもト書き通りではなかったことや、台本の真意みたいなものが見えてきて、改めてこの作品の素晴らしさや奥深さを感じました。◆そのときの内容を参考に僕なりにもう一度台本とスコアを読み直して僕のHPの日記にこの「ラ・ボエーム雑考」を書きました。◆その反響がとても大きかったので、改めてこちらに掲載してみました。◆かなり量が多いので、1日1項目読んでくださいね。(じゃないと、たぶん途中で嫌になっちゃうと思う:笑)


※上記の演出家さんの演出ノートがブログに公開されていました!合わせてご覧ください。
コチラ


もくじ
その1:オウムはソクラテス?
その2:サロメは「サラミ」か「下ネタ」か
その3:ロドルフォの巻
その4:ショナール&マルチェルロの巻
その5:コッリーネの巻
その6:優しいウソ
その7:最終回
その8:フィナーレ


オペラ「ラ・ボエーム」雑考その1〜オウムはソクラテス?〜


プッチーニ作曲によるオペラ「ラ・ボエーム」は作曲時間よりも台本を作るまでの時間が長かったんだそうです。
それほど台本作家ジャコーザ&イルリカとの綿密なディスカッションが膨大な量だったことがわかります。

その一分の隙もない台本を読まずしてこのオペラを語ることは許されないのでしょう。
(原作を読むことはあまり意味がないように思えます。むしろ原作と相違する部分はプッチーニたちによる脚色が
加えられており、なぜ彼らがその部分を原作と違えて書き直したのか?を探ることが重要です)

さて今回はショナールとコルリーネの会話の中にあるいくつかの例え話について・・・。

◆第一幕ショナールのアリア(?)の最後に登場する「(オウムは)ソクラテスみたいに死んじゃったんだ」◆
"da Socrate mori!"

・・・ソクラテスは賢者たちとの対話の末に、彼らの「知っていると思い込んでいること」は、
全て彼らが「理解していないこと」であることを証明してしまいます。
論破された賢者たちは恥をかかされたことを怒りソクラテスを裁判にかけ、結局死刑の判決を言い渡します。
どんなことがあっても信念を曲げることを許さなかったソクラテスは結局その処分を受け入れ、
毒ニンジンを飲んで死んでしまいます。
参考文献




第一幕で稼いだ金をばらまくショナール。彼はヘンテコなバイトで大金(彼らにとっては)を稼いでくるんです。
そのバイトとは・・・

・・・あるイギリス紳士風の男が自分の飼っているオウムの鳴き声がうるさくて仕方がなかった。
そこで紳士は、オウムの鳴き声がかき消されるよう音楽を演奏し続ける音楽家を探したのです。
雇われて三日三晩演奏をし続けたショナールはやってられなくなり、
とうとうオウムにパセリを食べさせ毒殺(?)してしまうのです。

「やかましくしゃべりたてたオウムを毒殺する」
という行為を上記のソクラテスの死刑と引っ掛けてしゃべっているんですね。
ショナールがそれほど読書家だったとは思えないので、
おそらくいつかコルリーネが偉そうに語っていた『ソクラテス』を覚えていたのだと思います。

この他にも第2幕では『ホラティウス』や『サロメ』(コルリーネが「サラミ」と掛けて叫びます)なども登場します。
ほんの少しだけ勉強してこの「ラ・ボエーム」を観るとより楽しめます。
これもプッチーニらによるちょっとした「遊び(オマケ)」だったりするわけです。
(2004/11/20)

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「ラ・ボエーム」雑考その2〜サラミは「サロメ」か「下ネタ」か〜



◆第二幕コルリーネ「サラミだ!」 "Salame!"
ミミを連れて仲間たちの待つカルティエ・ラタンに現れたロドルフォ。
マルチェルロ、ショナールそしてコルリーネがミミに初めて出会うシーン。
仲間は芝居じみた形でミミを仲間に受け入れます。

マルチェルロ:"Dio che concetti rari!"=(ロドルフォのミミを紹介するアリアに対して)まさに貴重なご意見だ!
コルリーネ:"Digna est intrari!"=(ラテン語で)加入に価する!
ショナール:
"Ingrediat si necessit"=(ラテン語で)必要あらば入会されよ。
コルリーネ:
"Io non do che un'accessit!"=(ラテン語とイタリア語が入り混じって)おれはただ加盟だけを贈ろう!
<しばし間 そして・・・>
コルリーネ:"Salame!"=サラミだ!


コルリーネは決してミミが嫌いな訳ではないのですが、
彼女が入ることで男4人の関係が離散することは嫌なんです。
それが「加入」ではなく「加盟」と正すコルリーネの言葉になるのだと思います。
男たちの友情の中にミミが入ることは認めない。ただ仲間として認めよう・・・という態度。
そして少し気まずくなったところで「サラミだ!」・・・と。


@【「サラミ」は「サロメ」説】
この「サラミ」は給仕に対する注文であるはずがなく(そういう演出がなぜか多いのですが)、
ミミに対するちょっとした皮肉のはずです。
つまり「サラミ"salame"」「サロメ"salome"」を掛けているわけです。

 『サロメ』のあらすじ
 ・・・若い娘が踊りの褒美に男の首を要求するという「サロメ」の話は、二千年以上昔、
 古代ローマ時代のガリラヤ地方の逸話として聖書に登場する。
 そしてルネサンス以来、数多くの芸術の中でこのテーマが繰り返し描かれてきた。
 アイルランド生まれの詩人、小説家、劇作家であるオスカー・ワイルドが1891年に書いた一幕悲劇「サロメ」では、
 『死に憧れる乙女サロメは、思い焦がれても振り向いてもらえぬ男を死に至らしめる・・・。』
参考

女というものは男を死に至らしめる・・・。

数回の恋愛を繰り返しそのたびに失望と挫折に思い悩んできたロドルフォ(第3幕より)。
その姿を目の当たりにしてきた女嫌い(?)のコルリーネとしては、
ロドルフォに新しい恋人ができることを素直には喜べないものがあるのかもしれません。
それをわからないように皮肉って叫ぶ"Salame!"
コルリーネの堅物なまでの実直さと、友情からくる彼なりの精一杯の抵抗でもあるのかもしれません。

この後、ミミがいる前でロドルフォの女性遍歴を匂わせることをショナールと話しているのもその延長ですし
(練習番号[15]の42小節目〜)、その後ムゼッタが登場した後のショナールとコルリーネの会話もつながっています。
実は第2幕はコルリーネの人生観(特に女性観)がよく表れたシーンなのではないでしょうか?


A【「サラミ」は下ネタ説】
もう一つ思いついたのは、丸ごとの「サラミ」を「男根」に例えた、という下ネタ説。
あえて解説する必要もありませんが、この可能性も大きいですね。
つまり「スケベ!」という意味でコッリーネが叫んだのでは・・・?
・・・どちらかというと、こちらの説の方が有力かな?
(2004/11/21)

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「ラ・ボエーム」雑考その3〜ロドルフォの巻〜


◆芸術家たちの挫折・・・その@:ロドルフォの挫折◆
このオペラは一般的に「悲劇」とされているが、
それは単にミミが死ぬから「悲劇」なのではない。
このオペラの悲劇性はミミの死(というより「ミミの消え行く命」)に対して、
人生を謳歌しているはずの5人の若者が「無力であった」ということなのだ。

●なぜロドルフォは自らの原稿を燃やしたのか・・・●
オペラの幕が開くと、まず自分の仕事をしている画家マルチェルロと、
それとは対称的に窓の外を物憂げに眺めているロドルフォの姿が現れる。
このとき詩人であるはずのロドルフォは何故自らの仕事を放棄し、窓の外を見つめているのか?
そして彼はそこに何を思うのか?

僕も作曲をしたり、昔は自作の小説を書いたりした経験があります。
その経験から素人ではありますが「物書き」として、その心理として・・・
若いころの未熟な作品っていつまでも捨てることができずに引き出しの奥の方に残しておくものです。
ロドルフォもおそらくそんな風に宝物のように残していた作品を、
オペラの冒頭で惜しげもなく薪の代わりに燃やしてしまいます。

ロドルフォは自分の「青春の思い出」を捨てるだけでなく、
詩人としての自分自身の「これまでの人生」そのものを捨てようとしているのではないでしょうか?

ましてや、あのシーンで「原稿を燃やすこと」が部屋を本当に暖めるのに足りるものでないことは、
ロドルフォにもマルチェルロにもわかっています。
だってどうせ燃やすなら何も原稿を燃やさなくたって、
まだ何も書かれていない白い紙が山ほどあるはずじゃないですか。そこまで彼らはバカではありません。

あのとき彼らが行っている行動は「部屋を暖めること」が目的なのではなく、
「自らの血と汗がにじんだ青春の結晶」である「作品を燃やすこと」にこそ意味があったのです。

ロドルフォはオペラの幕開けで窓の外を物憂げに眺めています。
その視界には
「灰色の空に、パリのたくさんの屋根から煙が立ちのぼる
"Nei cieli bigi (guardo) fumar dai mille comignoli Parigi,"」

様子が映ります。
・・・あんな煙のように僕の作品、そして僕の青春とも言える「芸術の精神」を天に昇らせてしまいたい・・・


●ロドルフォの失望●
彼は今の生活に失望しきっています。
ミミが登場する時に彼が手がけている原稿とは、流行雑誌「カストロcastoro」のためのもの。
・・・今で言う写真週刊誌?ゴシップ誌のようなもので、どう考えても文芸的な価値を持っているとは思えない)
生活のためとは言え、自らの詩人としてのプライドも何もないものを書かざるを得なかったロドルフォ。
そして彼はその仕事に「気が乗らない "Non sono in vena."」のです。
(※ここで注目すべきはこの部分のト書きに"sfiduciato=失望して"と書いてあることです)

そして・・・

そこにミミが登場したのです。
彼女こそ、ロドルフォの心の中で消えかかっていた火を再び燃え上がらせるのに充分な精神的な魅力を持っていた・・・。
ロドルフォが第2幕で仲間たちにミミを紹介するときの短いアリアの何と情熱的なことか。

しかし彼の心の火は第3幕の前で再び消えかかり第3幕フィナーレではまた持ち直し、
第4幕冒頭では再び消えかかっては、またミミの登場によって・・・
(たとえそれが自らの「命の火」の消えかかった恋人であったとしても)燃え上がるのです。
そしてラストシーン・・・そのともしびは遂に完全に息絶えます。


このオペラ中、最初から最後まで運命に翻弄され続けるロドルフォ。
しかし彼は恋人の命と引き換えに自らの芸術家としての命を再び蘇らせることでしょう。
・・・そう信じたい・・・
この「ラ・ボエーム」という物語が悲しみから立ち直ったロドルフォ自身による、
回想を描いた小説である・・・と信じたいのです。
(2004/11/22)

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「ラ・ボエーム」雑考その4〜ショナール&マルチェルロの巻 〜

◆芸術家たちの挫折・・・そのA:ショナールとマルチェルロの挫折◆
第1幕冒頭で芸術家としての挫折を感じていたロドルフォ。
しかしミミの登場で彼の芸術家としての魂は再び蘇るのです。
では画家マルチェルロ、音楽家ショナールは・・・?

●ヘンテコなバイトで金を稼いできたショナール●
第1幕でお金を稼いで帰ってきた音楽家ショナール
彼はそのアリアの中でそのお金を稼ぐ様子を自慢げに語ります。
(※その内容については「雑考その1」参照)
この仕事は音楽家として正当な仕事と言えるでしょうか?

ロドルフォは「カストロ誌」の原稿を書くことに気が乗らなかった。
・・・その理由はその仕事の内容が、自らの芸術家としての魂を燃やすのに適したものではなかったから。
同じようにショナールの仕事は音楽家としてむしろ屈辱とも言えるものだと思います。
「うちのオウムの鳴き声がうるさいから、その鳴き声をかき消すために演奏をしてくれ」
ショナールは聴衆もいない部屋で、三日間もピアノ(原作では)を引き続けます。
・・・その場面を想像してみてください・・・
それが夢を燃やす音楽家にとってどんなに屈辱的だったことか・・・。
ところが当の本人ショナールはそんなことにちっとも気をとめていません。
彼はとても現実的な考え方をしていて、まずはお金を稼ぐことができたことに満足をしています。
それが悪いことだとは思いませんが、その意味ではロドルフォの方が芸術家として純粋なのかもしれません。

第2幕ではホルン(狩猟ホルン)を買います。
このホルンが本当の意味での(芸術的な・・・という意味での)楽器ではないことは注目です。
この狩猟ホルン・・・一体何に使うんでしょうね?(笑)

●看板書きマルチェルロ●
第1幕で生き生きと描いていたはずのマルチェルロの作品「紅海」は第3幕では、
無残にもキャバレーの看板になっています。
ムゼッタとよりを取り戻したマルチェルロは彼女との生活のために、
ムゼッタの働くキャバレーの店長の世話になり、看板書きとして生活をしています。
そこには芸術家としての生き生きとした姿は微塵もありません。

第4幕。ムゼッタと別れたマルチェルロは再び芸術家として作品を手がけますが、
その作品は第1幕の作品よりも劣っていることは言うまでもありません。
彼にはもはや芸術家としてのエネルギーは残っていないのです。
(2004/11/23)

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「ラ・ボエーム」雑考その5〜コルリーネの巻〜

◆芸術家たちの挫折・・・Bコルリーネの挫折◆
誰よりも純粋に芸術を愛した男コルリーネ。
最後まで芸術家であり続けた哲学者は、
瀕死のミミを前にして自らのシンボルとも言える外套(コート)を売りに行くことを決意します。

●コルリーネのアリア●
当時パリの街を外套を着て歩く若者がたくさんいました。
ボヘミアンと呼ばれた彼らは好んで汚い身なりをして髪を伸ばし、ヒゲを生やし、
自分の哲学や芸術論を語り合っていたのです。
昭和70年代のヒッピーのような感じ・・・もうちょっとわかりやすく言うと、
ちょっと前まで渋谷にいたガングロみたいな感じを想像するといいかな?
とにかくそんなボヘミアンにとって「外套」を捨てるということは、
ガングロギャルが顔のメイクを取るようなものなのです。

「外套を売りに行く」ということは単に慣れ親しんだ服を捨てるというだけではなく、
すなわち「哲学を捨てる」というほどの決意なのです。
この決意は第1幕でロドルフォが物憂げだったこと、
第3幕でマルチェルロが看板書きに成り下がったこと
(ショナールに至ってはすでにオペラの幕が開く前に音楽家としてのプライドを捨てています)
と同様のものとも言えます。
それが第4幕の最後に出てくるのは、
コッリーネがこの4人の中で最後までボヘミアンであり続けた、ということなのでしょう。

●すべてが無駄だった・・・という悲劇●
前述しましたが、この「ラ・ボエーム」というオペラの最大の悲劇は、ミミの死そのものではありません。
瀕死のミミのために何もできないでいる若者たちの姿こそが悲劇なのです。
そして、最後のボヘミアン:コルリーネが自分の夢を捨てて外套をお金に代えた
・・・ところが彼がお金を得て部屋に帰ってきたときにはミミはすでに息絶えている・・・。
この虚無感こそが最大の悲劇なのです。

原作ではミミが死んだこの日を境に4人の芸術家たちは散り散りになり、二度と会うことはありませんでした。
他の3人がその後も貧乏だった中で、コルリーネだけが金持ちの女性と結婚し裕福になります。
それは本来ボヘミアンが「理想」として語った生き方とは逆のものです。
最後までボヘミアンであり続けたはずのコルリーネは完全にボヘミアンとしての生き方に見切りをつけたわけですね。
(2004.11.24)

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「ラ・ボエーム」雑考その6〜優しいウソ〜

◆優しいウソ◆
第4幕、瀕死のミミをムゼッタが連れてきてから友人スちはロドルフォのためにそれぞれがウソをついています。
その一つ一つを見ていくと、あのシーンがどんなに暖かい友情に包まれているか・・・。
そしてそのウソがそれぞれの「絶望」から生まれたものであり、より悲劇性を増しています。

●部屋を出る口実:ショナールのウソ●
マルチェルロとムゼッタが部屋をあとにし、コルリーネも自分の外套を質屋で売りに行こうとします。
ただ1人、何もできずにいるショナールにコルリーネはこう言います。
「ショナール・・・(略)あいつらを二人だけにしてやれよ!」
ショナールはコルリーネの提案に感動し、部屋を出ようとします。(練習番号20:Andantino mosso)
しばらくオーケストラだけの音楽が流れる中、ショナールは部屋を出て行きます。
このときの音楽が第1幕で登場する「ショナールの主題」の変奏から「ロドルフォのアリアのメロディ」
移行する様はまさに秀逸です。
この部分のト書き
「ショナールはあたりを見回して自分が外に出て行く口実に水差しを持って注意深く戸を閉め、
コルリーネのあとを追って下に降りていく」

水差しに水をくんでくる必要なんてないのですが、ロドルフォに気を遣わせないように口実を探すんですね。
そしてその後ミミが咳き込み、ロドルフォの絶叫を聞くとすぐ部屋に走りこんできます。
おそらく水をくんだ後、階段を上り、部屋の扉の前で膝を抱えて仲間(と医者)が帰って来るのを待っていたのでしょう。

●「医者は来るさ・・・」:マルチェルロのウソ●
マルチェルロはムゼッタと共に部屋に帰ってきてから、わずか数分の間に二回同じ言葉を繰り返します。
これは心理的にこの事柄を強調しようとしていると同時に、
何らかのウソをついていることも表しているとは言えないでしょうか?
その言葉とは・・・"Verra."(医者は)来るさ
この部屋に帰ってくる前に街角で医者に会ったというマルチェルロ。
気付け薬だけをもらって彼らは帰ってきます。
でも果たして医者は本当に来るのか・・・?

ロドルフォ「医者は何て言っていたんだ?」
マルチェルロ「来るさ・・・」

このマルチェルロのあっさりとした言葉。しかもロドルフォの問いに対して矛盾した返答。
僕にはむしろ「来ない・・・」と聞こえます。
マルチェルロは本当に医者に会ったのでしょうか?
会ったのなら一時を争うこの状況で力ずくでも連れてくるべきだし、
それができなかったとしたら、医者には会ったが相手にしてもらえなかったのか・・・?
いずれにせよ、このあまりにもあっさりとした返答には多くの含みがあるように思えてなりません。
このことからミミの容態が明らかに手遅れであることが見てとれる状態だったことも読み取れますし、
そこに絶望している友人たちの気持ち・・・
・・・それでも何もしないでその時(死)を待つだけではいられない彼らの気持ちが胸に響きます。

●「眠っているの?」:ムゼッタの言葉の選択●
上記のことが事実なら、マルチェルロと一緒にいたムゼッタは彼と同じ想いであることは当然のことです。
二人が部屋に戻ってきたとき、ミミは目をつぶっていました。 ,bR>部屋の中はあまりにも静寂です。
そしてムゼッタの第一声・・・"Dorme?"「眠っているの?」
この言葉はムゼッタの一瞬の判断で選んだ最良の言葉です。
ミミはもう医者を呼んでも無駄だ・・・時間の問題だ
(その前にショナールが「あと30分ももたないぞ・・・」と言っている)とわかっているムゼッタ。
部屋の扉を開くと目をつぶっているミミ。部屋の静寂。
当然彼女は「まさか・・・死んでる?」と思ったに違いありません。
しかしあまりにもダイレクトには質問できず、
「眠っているの?」と尋ねた・・・と考えるのが自然です。
この問いかけにロドルフォが「休んでいる」と答え、ムゼッタはホッとしたのでしょう。
すかさずマルチェルロがロドルフォに話しかけます。
この絶妙の「間」がプッチーニの見事な心理描写でもあり、
そこに彼らの様々な思惑が表されています。
そしてそれが全てロドルフォへの優しい気遣いにつながっていることは言うまでもありません。
(2004.11.25)

つづいて「その7」を読む ☆このページのトップへ


「ラ・ボエーム」雑考その7:最終回

◆ロドルフォの心理◆
ラストシーン・・・ロドルフォは何を思っているのでしょうか?
本当にミミが死んだことに最後まで気づいていないのでしょうか?
ト書きと歌詞からそのシーンを再現してみます。



まずミミが息を引き取っていることをショナールが発見します。
次にそのことをショナールはマルチェルロに告げます。
コルリーネの「どんな具合だ?」の質問に、「今は静かだよ」と答えて振り返るロドルフォ。
そこでマルチェルロとショナールの異常な態度に気づき、こう言います。
(恐怖からノドを詰まらせた声で)
「何を言おうとしているんだ?そんなに行ったり来たりして・・・なぜそんな風にオレを見るんだ・・・」
そしてこらえきれなくなったマルチェルロがロドルフォのところに走り寄り、抱きながら苦しい声で叫びます。
「しっかりするんだ!」
この言葉でロドルフォは全てを理解し・・・「ミミー!」「ミミー!」と叫び幕となります。



このシーン。冷静に読み返してください。
ロドルフォは本当にミミの死に気づいていなかった?
マルチェルロが「こらえきれなくなった」のは何に対して?


ロドルフォはマルチェルロの言葉でミミの死を確信します。
本人がミミの脈を取るなどの確認は一切していません。
ロドルフォは「確信」こそはしていないまでも、
ミミが死ぬこと(それは時間の問題である、ということ)には少なくとも気づいているはずです。
それをふまえた上で時間をさかのぼると非常に重要なセリフがあることに気づきます。

ムゼッタがお祈りをしているのに対して、ロドルフォはこう言います。
「オレはまだ希望を持っているんだ。君にはそんな危険な状態に見えるのかい?」

何かがおかしい、とは思いませんか?
そのだいぶ前。ショナールはミミを見て「半時間ももたないぜ」と言います。
それぐらい「危険な状態である」ことは一目瞭然なはずです。
ロドルフォもムゼッタもそのことを知っています。
ロドルフォが言っているのは現実のミミの状態ではなく、飽くまで「希望」です。
そんな風に思いたくはない、信じたくはない・・・という言葉であるはずです。
・・・ということはロドルフォはミミの死が少なくとも間近に現実のものとしてある、ということには気づいているはず。

死を直前にしている人間が眠っているようにみえるとはいえ、目を閉じている。
この光景って恐怖じゃないですか。
そんな状態でロドルフォは長い時間ミミから目を逸らしている。
これがまた大いなる違和感です。

●オーソドックスな演出で演じた場合の違和感●
オーソドックスな演出では、ミミが死んだ瞬間を誰も見ていない。
ミミは「眠るわ・・・」と最後の言葉を残して息を引き取ります。
この瞬間に全員がミミから目を逸らしているという違和感。
何度か「ラ・ボエーム」の公演を客席から観ましたが、毎回感じる違和感はコレです。

ミミが息を引き取る・・・
(間)・・・この間全員がミミから目を逸らしている・・・
そしてロドルフォのセリフ「医者は何て言っていたんだ?」

このセリフがまた何だか違和感
(いらついて)もしくは(つめよるように)
「医者はまだ来ないのか?」の方がしっくりくるんです。
でもあえてイッリカとプッチーニはこの言葉を選んでいる。
僕にはロドルフォの心理状態が動揺しているように感じます。
そしてマルチェルロの返答「来るさ」
これがまたロドルフォの問いの答えになっていない。

これはプッチーニたちのミス?
そんなわけがない。ここまで綿密な打ち合わせで作り上げたこのオペラの台本。
初演の後も修正を重ねているというのに。

ロドルフォはミミの死に気づいている。
確信こそはないが、ミミは眠るように息を引き取った・・・。
だが「信じたくない」。だから確認もしない。
「ミミは死んでいない」そう自分に言い聞かせるロドルフォ。
・・・間があり・・・
動揺から生まれたおかしな会話。

●真相は?●
ラストシーンをもう一度読み返してください。

"マルチェルロとショナールの態度だけでロドルフォはミミの死を知らされます。
・・・いえ現実をつきつけられた、と言う方がよいかもしれません。
マルチェルロは現実を受け止めようとしないロドルフォの様子にこらえなれなくなり、
ロドルフォのもとへ駆け寄り、彼を抱きます。
マルチェルロ「しっかりするんだ!」
・・・・・・・
ロドルフォ「ミミー!」
ロドルフォはミミに駆け寄り叫びます。「ミミー!」・・・(終演)"


あくまでこれは仮説ですが、
あの違和感を解決するため、
台本(会話)上の矛盾を解消するため、
上記の解釈でこのラストシーンを見ると何と必然に満ち溢れることか・・・。
この仮説のことを「考えすぎ」と思われる人も多いでしょう。
でもプッチーニとイッリカたちが何度も何度も手紙による打ち合わせを重ね、
校正に校正を重ねた末に書き上げたのです。
・・・それこそ「考えすぎ」なほどに。
僕はそうして完成したこの台本と楽譜に敬意を感じずにはいられません。
(2004.11.26)

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「ラ・ボエーム」雑考その8:フィナーレ

◆「お前こそ本当の哲学者だ!」◆
第4幕終盤。哲学者コルリーネが有名な「外套のアリア」を歌います。
この「外套のアリア」は仲間たちが芸術家としての信念を失っていく中、
最後まで哲学者としての生き方を変えなかったコルリーネが、
ついにその信念を捨てる重要なシーンでもあります。

そのアリアを部屋の隅で聴いているショナール。
誰よりも4人の姿を客観的に眺めてきた彼には、
最後の砦であったコルリーネの芸術家としての信念までもが崩れていく様を目の当たりにし、絶望します。
(コルリーネ・・・お前までもが・・・これで芸術家はだれもいなくなった・・・)
この瞬間、彼ら4人の楽しい生活が終わることを予感しているのかもしれません。



"Addio! Addio・・・"の言葉で終わる「外套のアリア」
感動的なアリアを歌い終えたコルリーネは、
うなだれているショナールにそっと語りかけます。
「ショナール・・・(略)二人だけにしてやろうぜ」
その言葉にハッとするショナール。彼はこんな言葉をコルリーネに返します。
「その通りだ哲学者よ!本当だ・・・行こう!」
この時ショナールは(自分に「ショナール」と呼びかけてきたコルリーネに対し)
「コルリーネ」と呼ばずに「哲学者よ」と呼び返すのです。

いつも本ばかり読んでいて、世の中や人生を冷徹に揶揄してきたコルリーネ。
哲学を捨てる決意をしたばかりの彼はロドルフォとミミを気遣った何とも美しい優しさをみせるのです。
そんなコルリーネに対してショナールは感動し、
「(お前こそ真の)哲学者よ!」と呼んだのです。


●ショナールは気づいた!●
以前の「ラ・ボエーム」雑考で何度も書きましたが、
この第4幕で彼らは瀕死のミミの前では自分たちの芸術は何の役にもたたない・・・という絶望に打ちひしがれます。
特にショナール(音楽家:プッチーニ自身がモデルなのかもしれない)は何もできずにいます。
(僕はラストシーンを演じるにあたって、ミミがマフをもらって「高かったんでしょ?」とロドルフォに言うシーンで、
一番胸を痛めています。「なんでオレたちはこんなにも役立たずなんだ!」と。)
そんな失望感の中に一筋の光が差し込むのです。
コルリーネがそう促したように、
「人を気遣う気持ち」「愛し合うことの大切さ」こそが、
哲学(=人生)であり、芸術であることを悟るのです。

ミミの死以降、ショナールたちは散り散りになります。
きっとショナールは新たな気持ちで芸術、音楽に臨むに違いありません。
ミミの死を無駄にしない。
この経験で知った「思いやり」を自らの糧にして、音楽人として人生を謳歌することでしょう。
(2004.12.4)


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